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有閑神(デウス・オーティオースス)、デーミウールゴス、プレーローマなど

有閑神(デウス・オーティオースス)〉という観念にふれたのは、

エリアーデ著作集 第1巻 太陽と天空神 宗教学概論 1』、1974、「第2章 天空 - 天空神、天空の儀礼と象徴」

でした。
 粗っぽくいうと、天空の至上神は、創造などの役割を果たした後、天空高くに引っこんでしまい、日常的な儀礼において大きな位置を占めない。その後世界に具体的に関わるのは、雷霆神など、後続の、あるいは下位の神々となる傾向があるといったところでしょうか。
 こうした捉え方が普及しているのかどうかはわかりませんが、たとえば


篠田知和基、「天空の神話学の諸問題」、『天空の神話 - 風と鳥と星』、2009、pp.17-64

  同、  「天空の神話の実態と観念」、『天空の世界神話』、2009、pp.311-355

はともに冒頭で、エリアーデの天空神概念に批判的に言及しています。

 宗教史や神話学における評価はさておき、多少のずれをはらみつつ、この概念は宇宙論的構図を捉えるに際して、全く無益というわけでもなさそうです。たとえばプラトーンの『ティーマイオス』によると、
「存在と場所と生成の三つは、天が生成する前からすでに三つに分かれていた」(52d、泉治典訳、「ティマイオス - 自然について」、『プラトン全集 6』、1974、pp.222)。
〈存在〉はいわゆるイデアにあたりますが、「善い者」(29e、同、p.193)であるところの〈工匠(デーミウールゴス)〉は、

「生成するものすべてのものができるだけ自分自身に似るものとなることを欲し」(同)、

宇宙を創造します。デーミウールゴスは「永遠に存在する神」、宇宙は「或るとき生ずるであろう神」(34b、同、p.198)と呼ばれたりもしますが、実のところ字面を追うかぎりでは、デーミウールゴスの素性は、必ずしも判然としているわけではなく、その意味で

「何か私生児的な推理によってとらえられるもので、信ずることすらほとんどできないほどだ」(52b、同、p.222)

と形容される〈
場所(コーラ)〉に通じるところがないともいえなさそうなのですが、それはともかく、天と天の神々を生みだした後、天の神々に

「三種の死ぬべき種族がまだ生まれないで残っている」

ことを告げ(41a-d、同、pp.206-207)、

「死ぬべきからだを作ることは若い神々にまかせた」(42d、同、p.209)。

そして、

「その神は、以上すべてのことを命じた後、自分の意にかなう席に退いて行った」(42e、同)

というのです。


 ティーマイオスの語る宇宙開闢論は、あくまで「蓋然的な話」(29c-d、同、pp.192-193)、いわゆる〈神話(ミュートス)〉に留まるとされるわけですが、他方、デカルトの〈寓話 fable〉を経て(→こちらを参照:「バロックなど(17世紀)」の頁の「v. デカルトなど」)、ニュートンの陣営と論争したライプニッツについてコイレが『コスモスの崩壊 - 閉ざされた世界から無限の宇宙へ』(1974)で、

「ライプニッツの神はニュートンの言う王の王、世界を好きなように作り、聖書の神が創造の初めの6日間にした世界へのはたらきかけを今も続けるような神ではない。同じ比喩を使えば、それは聖書の神でも安息日の神、すでに仕事を終え、出来た世界を良き世界、可能なあらゆる世界の内で最良の世界と見なす神、したがって世界に対して、あるいは世界の内にもはやはたらきかける必要はなく、それを保ち、その存在を維持するだけでいいような神である」(pp.291-292)

と記し、「むすび」でその帰結として、

「神という工匠には世界のなかでする仕事が徐々に減っていった。世界を維持する必要もなくなった。世界はそんなサービスなしにもやっていけるようになった」(p.331)

と述べたことを思い起こすこともできるでしょう。

 あるいは、小松左京の「結晶星団」(1972)では、

「創造者ンバンバ。宇宙(このよ)運命(さだめ)、すでにきめられたれば、もはや、終りの日までかえりたまわず。…(中略)…〝されどもしン・ンの封じ目、のちの世の人、異星(とつほし)の者におかされ、破らるる事あらば、神の神、まことの神ンバンバ、(あま)さかる彼方よりかえりきたり(ヽヽヽヽヽヽ)…(後略)…〟」

という予言が設定されているのですが(p.262、また pp.279-280)、ここにも有閑神(デウス・オーティオースス)〉のあり方が再現されているさまを認めることができます。押井守『ガルム・ウォーズ 白銀の審問艦』(2015)にも同様の設定がありました(pp.44-45、239-242 など)。

………………………

 ところで、これまでふれてきたのは至高神が創造を終えて後、彼方に遠ざかるというパターンですが、エリアーデが指摘したのはそうした〈有閑神(デウス・オーティオースス)〉に対して、より身近な領域活動する諸力があり、後者が日常的な儀礼の対象になる、というものでした。これら両者の位置関係はそのままに、後者をこそ〈工匠(デーミウールゴス)〉と見なすパターンも、時として見受けられます。

 典型的なのが、『古事記』における天之御中主神以下の神統譜と、その末端に位置するイザナキ、イザナミの関係でしょう。イザナキ、イザナミ以前の15柱は、その神名に開闢展開の相を表わすとされるにせよ、具体的な行動は示さず、世界を形成する作業はイザナキ、イザナミによって担われます。そして黄泉の坂下りを経て、天照らを産み落とした後は、イザナキも退場するのです。

 同様のパターンは『エヌマ・エリシュ』でも見てとれます。始源にあったのはアプスー(「淡水」)とティアマト(「塩水」)で、

「かれらの水(淡水と塩水)が一つに混じり合った」(第Ⅰ粘土板-8、後藤光一郎訳、「エヌマ・エリシュ(天地創造物語)」、『古代オリエント集 筑摩世界文學体系 1』、1978、p.108)

ところから、(男)神ラハムと(女)神ラハムが、次いでアンシャルとキシャル、彼らの息子アヌ、アヌからヌディンムド(エア)へと続きます。その後始源の対と子孫の神々との間に不和が生じ、アプスーをエアが、ティアマトをエアとダムキナの子マルドクが殺し、ティアマトのからだからマルドクが天地を形成することになるのでした。


 『スノリのエッダ』によると、北欧神話でも始源にまず生まれたのはユミルと霜の巨人族で、ユミルを養った牝牛アウズフムラがなめた岩の中からブーリが、ブーリからボルが、そしてボルと巨人族の娘ベストラからオーディン、ヴィリ、ヴェーが生まれます。そしてオーディンらボルの息子たちがユミルを殺し、ユミルのからだから天地を形成するのでした(4-8章、谷口幸男訳、『エッダ - 古代北欧歌謡集』、1973、pp.226-23)。

 他方、『ティーマイオス』における〈工匠(デーミウールゴス)〉の素性ははっきりしていないと記しましたが、中期プラトーン主義以降の展開(津田謙治、『マルキオン思想の多元論的構造 プトレマイオスおよびヌメニオスの思想との比較において』、2013、「第3章 創造神、第2(第3)の神」などを参照)、ユダヤにおける〈マガーリヤ〉などの動向(→こちらを参照:「ユダヤ」の頁の「vi. マガーリヤその他と天使論」)、あるいはアレクサンドレイアのピローンにおける〈ロゴス〉論(→そちらを参照:同、「iv. アレクサンドリアのフィロンとヘレニズムなど」)などにおいて位置づけが試みられることになります。そうした中で小さからぬ役割をはたしたのが、グノーシス諸派だと見なしてよいでしょう。

 『エヌマ・エリシュ』においては、後発のマルドク陣営が現在の世界の秩序と直結しており、始源のティアマトらは、悪といわないまでも、供犠に捧げられるべきものとして描かれていました。『ティーマイオス』における〈工匠(デーミウールゴス)〉は、生成に浸透されているにせよ、宇宙をあくまで善きものとして創造したのでした。グノーシス諸派といってもさまざまな傾向があるので一概にはいえないかぎりで、『ヨハネのアポクリュフォン』などと結びつけられるセツ派等では、評価は逆転して、星辰界を含む現宇宙は悪しきもの、〈工匠(デーミウールゴス)〉は悪しきものないし、少なくとも劣位の存在と見なされます。そして物質宇宙とは関わりのない〈充溢(プレーローマ)〉こそが還るべき場所となるのです。

 グノーシス諸派における〈工匠(デーミウールゴス)〉と〈充溢(プレーローマ)〉、創造神と隠れた神の評価逆転は、ショーレムによれば、サバタイ主義の神学においてもう一度反転させられたということです(ゲルショム・ショーレム、『ユダヤ神秘主義』、1985、pp.427-429。またショーレム、「アブラハム・カルドーゾの光に照らしたサバタイ主義の神学」、『ユダヤ主義の本質』、1972、pp.107-110。ショーレム、「18世紀の宗教的ニヒリズムにおけるサバタイ主義者の異端的メシアニズムの変貌」、『ユダヤ教神秘主義』、1975、pp.190-194、199-200。→こちらも参照:「ユダヤ Ⅲ」の頁の「xiv. サバタイ派、フランク派など」)。
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 いずれにせよ、ここには「たまにはハッピーエンド」(1992)の冒頭で、はなはだいい加減な形で列挙した、神性とその第一の現われの関係をめぐる問題もからんでいるのでしょう。
 ちなみに、そこで挙げた;
・ショーレムが指摘した、カバラにおける、エン・ソフと第一のセフィラーの関係をめぐる議論は、

ショーレム、「カバラーに関する十の非歴史的テーゼ」、『ユダヤ教神秘主義』、1975

中の「Ⅴ」(pp.248-250)が念頭にあったのでしょう。
 併せて;

Daniel C. Matt, "Ayin : The Concept of Nothingness in Jewish Mysticism", Lawrence Fine ed., Essential Papers on Kabbalah, 1995, pp.67-108

Joseph Dan, "3. The Paradox of Nothingness in the Kabbalah", Jewish Mysticism. Volume 3 : The Modern Period, 1999, pp.63-69

 また

ピンカス・ギラー、中村圭志訳、『カバラー』、2014、pp.90-94:「第3章 8 ダアトとケテル」および「第3章 9 アツムートとケリーム」

なども参照


・ヴェーダーンタ哲学におけるブラフマンとイーシュヴァラについては;

服部正明訳、「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 2-1-14, 18」、『バラモン教典 原始仏典 世界の名著 1』、1969、pp.245-266

服部正明訳、「最高神とその様態 ラーマーヌジャ『ヴェーダの要義』」、同上、pp.267-291

および同書の解説「インド思想の潮流」(長尾雅人・服部正明)、pp.51-53

を頭に置いていました。

井筒俊彦・上田閑照・大沼忠弘、「鼎談 神秘主義の根本構造 『イスラーム哲学の原点』をめぐって」、『理想』、no.565、1980.6:「特集 神秘主義

中の「神秘主義と人格神の問題」の項(pp.5-8)前後や、


井筒俊彦、『イスラーム哲学の原像』、1980

なども参照

・「イスラムの神学における存在と本質」と書いてしまいましたが、ここは「イスラムの哲学における……」とするべきところでしょう。ともあれ

井筒俊彦、『イスラーム思想史 - 神学・神秘主義・哲学-』、1975

におけるイブン・スィーナーについての記述や、

モッラー・サドラー、井筒俊彦訳・解説、『存在認識の道 - 存在と本質について-』1978

の解説を参照していたのでしょう。

 なおイスラームにおいても、神性の無人格性と人格性との関係はいろいろと議論されていたようです。 とりあえず、

東長靖、「存在一性論学派の顕現説における『アッラー』の階位 - カーシャーニーとジーリーを中心として -」、1986
などを参照

 存在/本質の関係にもどれば、この問題はイスラームだけでなく、ユダヤ・キリスト教の中世哲学においても議論されたものでした。たとえば

Alexander Altmann, "Essence and Existence in Maimonides", Studies in Religious Philosophy and Mysticism, 1969, pp.108-127

トマス・アクィナス、「存在者と本質について」、『中世思想原典集成 14 トマス・アクィナス』、1993、pp.65-112

 その別訳

聖トマス、『形而上学叙説 - 有と本質とに就いて -』、1935/2010

なども参照ください。

・エックハルトにおける神性と神というのはどこから頭に滑りこんだのでしょうか、上掲ヴェーダンタ哲学におけるブラフマン/イーシュヴァラの問題にもつながるものですが、先の

井筒俊彦・上田閑照・大沼忠弘、「鼎談 神秘主義の根本構造 『イスラーム哲学の原点』をめぐって

中の「神秘主義と人格神の問題」に続く「エックハルトの場合」の項(pp.8-10)とそれに続くあたりがネタかもしれません。

 エックハルトについて→こちらも参照:「キリスト教(西欧中世)」の頁の「エックハルト」の項

 この問題もまた、ベーメにおける〈無底〉やそれを引き継いだシェリングなどにつながっていきます→こちら(「バロックなど(17世紀)」の頁の「iii. ベーメ、その他」)や、あちら(「ロマン主義、近代など(18世紀末~19世紀)」の頁の「iii. シェリングなど」)を参照

・ニコラウス・クザーヌスやデカルトにおける無限としての神と無際限としての宇宙の区別については

コイレ、『コスモスの崩壊 - 閉ざされた世界から無限の宇宙へ』、1974、pp.18-19、23、133-137、147-154

などを参照

 上記原稿を書いた時は知らずにいたのですが、

戸川芳郎、『漢代の學術と文化』、2002

等に関連してふれた〈三気・四始・五運説〉(→こちらも参照:「中国」の頁の「i. 概説、通史など」)も相似た思考の運動によって生みだされたものなのでしょう。
………………………

 現われたる〈工匠(デーミウールゴス)〉と隠れた根源たる〈有閑神(デウス・オーティオースス)〉、神と神性との間に開いた間隙を、さらに分節してみたのが、グノーシス諸派における〈充溢(プレーローマ)〉だと見なすこともできるかもしれません。

 ところで→こちらでもふれたように、
大貫隆は『グノーシスの神話』(1999)
pp.66-67 で『ヨハネのアポクリュフォン』と『古事記』の神統譜を比較していましたし、
五十嵐一は、『イスラーム・ルネサンス』、1986、「Ⅱ 第8章 アッラーの神 - ひとつの神名論的反省 -」で「古事記の神学と流出論」、イスラームの「
原像空間(アーラム・ミサール)」、「カッバーラーの神学」を併置しています。

 実際、天御中主神から7柱の神々が

「独神と成りまして、身を隠したまいき」

という点、その後イザナキ、イザナミにいたる男女の対をなす5組10柱の神々が続くという構成は、系譜の最後に来るイザナキ、イザナミが〈
工匠(デーミウールゴス)〉の役割を果たす点と相まって、『ヨハネのアポクリュフォン』やウァレンティノス派プトレマイオスにおけるプレーローマを連想させずにいません。もとより先にもふれたように、グノーシス諸派におけるプレーローマが物質宇宙とは不連続な神性の世界であるのに対し、古事記の神統譜は物質界の生育のさまを表わすものであるらしいと、位置づけのありようは対照的ではあります。

 ファーラービーやイブン・スィーナーらのイスラーム哲学における第一知性からの第二知性および第一天球、そして順次流出をくりかえして能動知性にいたるという図式では、知性界と質料界は一対一に対応させられながらも、垂直性はいっそう強調されているように思われます。

 またカバラーにおける10のセフィロートにおいては、グノーシス諸派のプレーローマを構成する諸アイオーンとも、イスラーム哲学の知性=天使とも、各位格の人格性という点で、微妙に異なっているようです。

 他方、これも先にふれた『エヌマ・エリシュ』におけるアプスー、ティアマトからマルドクにいたる系譜もまた、やはり系譜の最後に来るマルドクが〈工匠(デーミウールゴス)〉の役割を果たす点とあわせて、対応する構図を描いているものと見なすことができるでしょう。ただしこの場合、アプスーとティアマトが原初の水の様態であるためか、グノーシス諸派や古事記のように、垂直に降下・上昇する印象はあまり受けません。

 垂直性だけでなく、時系列に沿った展開も感じさせないのが、ヘルモポリスの〈八柱神(オグドアス)〉と言えるでしょうか。
2014/08/09 以後、随時修正・追補 
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