ホーム 宇宙論の歴史、孫引きガイド 古城と怪奇映画など 美術の話 おまけ
     < 四方山話・目次  
根問異聞 メモ


  1 どんどんどんどん西へ;浮世根問
 2 世界の涯;ヘーシオドス『神統記』、他
  3 どんどんどんどん下へ;いわゆるイスラーム的宇宙論における大地を支える者たち
  4 どんどんどんどん下へ横へ;『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』より、他

1.どんどんどんどん西へ;浮世根問

 佐藤文隆・松田卓也、『相対論的宇宙論 ブラックホール・宇宙・超宇宙』(ブルーバックス B241)、講談社、1974

は、量子論の多世界解釈はおくにしても、インフレーション仮説やひも理論における〈マルティヴァース〉の話がにぎやかになる前の時点で、〈超宇宙〉の章を設けた、貴重な本でした。その中で、アインシュタインの相対性理論に至る宇宙論小史をおさえた「第Ⅳ章 宇宙観の『膨張』」の「1 宇宙の端はどこですか? 有限の宇宙から無限の宇宙へ」は、次のように書き起こされます;

 長屋の熊さんが、物知り顔の隠居にたずねる。
熊  「御隠居さん、大阪から西へ西へ行けばどこへ行くんです?」
隠居 「尼崎に出るな」
熊  「尼崎からもっと西へ行けばどこへ行くんです?」
隠居 「山陽道を通って九州に出るな」
熊  「九州を西へ西へ行けばどこへ行くんです?」
隠居 「海があってそれ以上行けないよ」
熊  「海の上を舟に乗ってどんどん西へ行くとどこへ行くんです?」
隠居 「行けども行けども海だ」
熊  「その海をどんどん西へ行けばどこへ行くんです」
隠居 「もうもうとした所に出るな」
熊  「そのもうもうとした所をかいくぐってどんどん西へ行けばどこへ行くんです」
隠居 「たいがいの者はその辺でひっかえしてくる」(pp.106-107)

 「このように下は庶民から上は仏弟子に到るまで、そして古今東西を問わず、多くの人々が世界の端とか宇宙の大きさについて大きな興味を持っていたようだ」(p.107)

と続きます。それはともかく、この話の出所は記されていませんでしたが、すっかり忘れていたのはいつものこと、

 川尻信夫、『「集合」の話』(講談社現代新書 286)、講談社、1972

の「序章 無限の算術」の「1 人間にとって無限とは何か」の冒頭で、落語の一ジャンル「根問(ねど)いもの」の一つ「浮世根問い」として、同じく西へ西へという話が挙げられていました。ただし「そこから西は海だからもういけない」「そこを船をやとってどんどん西へいったらどうなるんで」の後が少し違っていて、

唐土(もろこし)へつく」
「そこをまたどんどんどんどん西へいったらどうなるんで」
「しつっこいな。天竺(てんじく)へつく」
「そこからまたどんどんどんどん西へいったらどうなるんで」
「そこから西はもう高い山で、人間はとても進めない」
「そこを無理してよじのぼって、どんどんどんどん西へいったらどうなるんで」
「今度は大きな泥の海で、人間はもう一歩も進めない」
「そこをでっかいどじょうかなんかつかまえて、それにまたがってもっとどんどん西へいったらどうなるんで」
「今度はもうもうと湯気のたちこめた不思議なところで、とてもいけたものではない」
「そこを手ぬぐいで鼻をおさえるかなんかして、もっとどんどんどんどん西へいったらどうなるんで」(pp.10-12)

 「これは落語だけれども、どんどんいったらどうなるか、という素朴な疑問は、方向はさまざまであっても、たいていの人間がもっているのではなかろうか」(p.12)、

そして

「この『どんどんいく』ということに対する数学的表現が『無限』である」(同上)

と続きます。落語の話は次節(p.15)まで引っぱられますが、それはともかく、「もうもうと湯気のたちこめた不思議なところ」に先だって、「高い山」や「泥の海」というイメージが登場しました。「でっかいどじょう」にも後で触れましょう。また

 麻生芳伸編、『落語特選 上』(ちくま文庫 こ 5-15)、筑摩書房、2000

を手に取ってみると、「浮世根問」が収録されていましたが、これまた同じではありませんでした;

「…(前略)…でもいったい極楽ってえのはどこにあるんです?」
「十万億土にある」
「十万億土ってえますと……?」
「西方弥陀の浄土だ」
「せえほうみだらのちょうどってえますと?」
「これ、罰があたるど。西方というから、つまり西の方だなあ」
「小田原から箱根のあたり……?」
「とんでもない、ずっと西だ」
「ずっと西ってえと……どのあたり……?」
「まあ、あるから心配するな」
「だから、どこにあるか聞いてる

「ちゃんとあるよ」
「だから、どこかってえ……」
「いやなやつだな、どうも……おまえみたいに突きあたりまでものを聞きたがるやつは、とても極楽なんぞ行けない。ひとの言うことを素直にきけないやつは、地獄のほうだな」
「へえ、地獄ねえ……その地獄っての
、どこにあるんです?」
「ちゃんとある」
「どこに?」
「それはおまえ、つまりその……極楽の隣りにある」
「極楽は?……」
「地獄の隣りさ」
「地獄は?……」(pp.70-71)

 西へ西へという過程がここでははしょられている。「十万億土」というのも本来とてつもない距離を表わすはずですが、ここでは中身のない記号と化しているようです。
 さて、試しにネットで検索してみると、「落語【声劇台本書き起こし】」というサイトに「落語声劇『浮世根問』(作者: 霧夜シオン、掲載日:2024/05/20)という頁がありました(→こちら);

八五郎: 寂田(さびた)のご隠居に聞いたんです、世の中はどんなもんだって。
そしたら、世の中は難しいものだし広いもんだ、ほわっほわっ、て言うもんだから、
じゃあこっからどんどんどんどん西へ向かったらどこへ行くって聞いたらね、
日本の果ては筑紫の国や九州だとか言うんですよ。
ご隠居: そりゃ今のお前さんの尋ね方だとそう取れるわな。
八五郎: もっと西に行くとどこへ行くんですって聞いたら、
その先は海だ、船に乗らにゃいかんだろって言うんですよ。
ご隠居: そこまで行けば後は海だ、間違っちゃいないね。
八五郎: 船に乗ってったらどこへ行くって聞いたら、
行けども海だって言うもんで、
西へどんどんどんどん船漕(ふねこ)いで行ったらどこへ行くって聞いたら、
行けども行けども海である、ってんですよ。
じゃあそこを船でうわーっと行ったらどこへ行くって聞いたら、
その先は西洋だ、って言ったんですよ。
ご隠居: 確かに西洋だな。
八五郎: 西洋からさらに西へどんどんどんどん行くとその先は外国だ、
外国からもっと西へ行ったら、その先は船は行けないっていうから何でって聞いたら
泥の海だって言うんで、
そりゃもううわーーーっと、どんどんどんどん泥の海のくだりを一時間はやったね。
ご隠居: い、一時間!?
お前さんの舌は刀のように鋭いな。
八五郎: えぇそらもうね、ほわっほわっ、どころの騒ぎじゃないですよ。
寂田のご隠居もあっしの矛先に守るのが精いっぱいですよ。
あげくの果てにね、どんどんどんどん行ったらどこへ行くって聞いたら、
その先は行けない、塀があるってんですわ。
ご隠居: へ、へえ~~…。
八五郎: 塀なら破っちゃうってったら、破れねえってんで、
飛び越えるぞってったら高いって言うもんだから、
鳥の大きいので乗り越えて、うわーーーっと行ったらどうするったら、
もうその先は濛濛(もうもう)として分からないって。
ご隠居: 【つぶやくように】いかん…だいぶ苦し紛まぎれだ…。
八五郎: 濛濛なんぞ言い出したらこっちのもんだからね。
もうもうぅわーっもうもうぅわーって、これまた二時間くらいやったね。

 「参考にした落語口演の噺家演者様(敬称略) 
  柳家小さん(五代目)、立川談志(七代目)」

とのことですが、演じる者により、あるいはその時々の条件により変化するということなのか、この演目がいつ頃成立したのかも含めて、詳しい方に任せることにしたいと思います。


2.世界の涯;ヘーシオドス『神統記』、他

 「だいぶ苦し紛まぎれだ」、「濛濛なんぞ言い出したらこっちのもんだ」という台詞からして、どんどんどんどん西へ行くと泥の海だの濛濛としたところへ出るといったイメージになにがしか真実味があるとは、演者も聴衆も感じていないことが前提になっているのでしょう。そのかぎりで、無理矢理ひねり出した、ひねり出さなければならなかったという過程を経て、世界の果てのイメージができあがってくるという点が、むしろ面白いところではありますまいか。
 ともあれ「高い山」といえば、世界の果てをぐるりと囲む山ということで、ヒンドゥー教におけるローカ・アローカ山に仏教の鉄囲山、イランのアルボルズ山やイスラームにおけるカーフ山が思いだされます(→こちら(「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」)も参照)。カーフ山に関しては後に戻りましょう。
 「泥の海」については、『古事記』の神統譜の内、 宇比地邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)は「ウヒジは泥土、スヒヂは砂土の意で、土砂の神格化であろう」*とのことでしたが、天理教、如来教、富士講などの新宗教における始源や終末のイメージでもありました**。泥の海というのは水と土が混ざって切り分けられない状態で、ことによると空気や火も宿しているのかもしれません。
 「でっかいどじょう」というのも出てきましたが、どじょうは「泥鰌」と漢字を当てます。日本語版ウィキペディアの該当頁によると(→こちら)、「日本の平野部の水田や湿地、農業用水路、泥底の流れの緩やかな小川などに全国的に生息している」、「この形の魚は生態的には泥に潜ったり、岩の隙間に潜むような種類に多く」、「冬に水温約7℃を下回ると、泥の中で冬眠を始める」とのことで、こうした点から「泥の海」にいて不思議でないとされたのでしょう。
 ただし「それにまたがって」行けるだけの大きさがあるという。神話的な性格を帯びているようです。天理教の『こふき』においても、どじょうが登場します*3
* 次田真幸、『古事記(上) 全訳注』(講談社学術文庫 207)、講談社、1977、、p.38。

** 朴炳道、「近世災害における『世なおし』の呪文と『泥の海』の終末 - 1662年の京都大地震と『かなめいし』 -」、『東京大学宗教学年報』、no.33、2016.3.31、pp.58-60

 松村一男、「『こふき』の基層観念・泥海」(1990)、『神話思考 Ⅱ 地域と歴史』、2014、pp.294-311

など参照。

*3 大橋良介、「『泥海こふき』の比較宗教的分析」、『人文學報』、no.65、1989.3.31:「諸宗教の比較論的研究」、pp.132-141
 「その先は行けない、塀」とは山以外ならどんなイメージなのでしょうか。『キング・コング』(1933、監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック→こちら(『A-ko The ヴァーサス』(1990) メモの頁)でも触れました)で、髑髏島に設けられた巨大な塀だか壁が連想されたりもします(右)。あの塀の向こうは、ある意味で人の(のり)を超えた異界でした。 『キング・コング』 1933 約24分:髑髏島と巨大な塀
 ちなみに右は『キングコング対ゴジラ』(1962、監督:本多猪四郎)における塀で、格子状のすかすかしたものでした。下左は『キングコング』(1976、監督:ジョン・ギラーミン)のもので、木の柱の間に土を詰めてある。下右は『キング・コング』(2005、監督:ピーター・ジャクソン)より、石造りのように見えます。 『キングコング対ゴジラ』 1962 約17分;ファロ島の巨大な塀
『キングコング』 1976 約34分;謎の島の巨大な塀 『キング・コング』 2005 約59分;髑髏島の巨大な塀
 James S. Romm, The Edges of the Earth in Ancient Thought. Geography, Exploration, and Fiction, Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1992

には、紀元前5世紀のカルタゴの航海者ハンノとほぼ同時代で、やはりカルタゴ出身のヒミルコが、ヘーラクレースの柱を越えた航海に出た時の記録から、

「海面は深みまで伸びていかず、土はほんの少しの水でかろうじて覆われるばかりだ。荒々しい海の生き物たちが四方で行く手をふさぎ、海の怪物たちがのろのろ進む船の間を泳ぐ」(p.21/第1章2節)

と、〈泥の海〉に通じるありさまや、

「ある種の外套であるかのように、暗い霧が大気を覆い、雲が深みの表面をいつも隠している。そしてこのヴェイルは、暗い日中を通して留まっている」(同上)

という断片が引用されていました。オーケアノスは後の英語なら"ocean"で、大洋を意味することになりますが、古代にあっては大地を囲む川と見なされていたとのことです(同、p.12/第1章1節)。

「オーケアノスが環状の陸地を限定する〈(ペイラタ)〉をもたらすのだとして、一方オーケアノスを収める境界は、より問題のある論点だった」(同、p.15)。

 それゆえヒミルコが報告した「暗い霧」は、変化する気象の一時的な状態としてではありませんでした。

「大地と水、あるいは水と大気を分かつ『境界』は、オーケアノスの限りなさの内で崩れるかのようで、オーケアノスを〈果てしなさ(アペイロン)〉のごとき諸元素の霧深く、分化していないうねりにしてしまう」(同、p.22/第1章2節)。

「濛濛として」「とてもいけたものではない」「不思議なところ」でもあれば、水と土、空気が混じりあった「泥の海」でもあるわけです。また

 小笠原正薫、「ヘシオドスのカオスをめぐって」、『思索』、37巻、2004.9.30

によると、
「アリストパネスは先の箇所の数行前*で『(天と)地の間』にアーエールがあるともいっている。アーエールは一般的には空気の意味で使われるが、P.ルイは『ホメロスにおけるアーエールの意味について』の中で『アーエールという語は様々のニュアンスをあらわし、その意味は、光を通さない霧から水平線に青みをおびさせる半透明の靄、蒸気にまでわたる』という」(p.48)。

「さて、そのタルタロスの上には大地と海の根が伸びている(728)**。ウエストはこの大地と海の根がからまりあって最後には大地と海の区別がつかなくなるところにカオスがある、とヘシオドスが多分思い描いているのではないかとする」(p.53)。

「このカオスは宇宙生成のあともその姿をとどめ世界の涯に存在しつづける。しかし、カールは、カオスが大地とアイテールとの間の隙間にあり、そこを満しているアーエールであるとする。ただし、彼はカオスに不透明性を意味する『霧の海』(Dunstmer)の訳語をあて、アイテールよりも下層の地表近くの空間にあるとする」(p.54)。

「そのようなカオスは『大地の涯に』(731*3)、『源と果て』と表現される天と地と海が尽きるところ、そこにはタルタロスの入り口もあって、それらが『あい並んでいる』(738*4)といわれる。…(中略)…カオスから万物が生じてきたのだとすると『カオスの向こう側』*5とは何を指すのか。カオスはまったく視界のきかない闇を意味している。その闇の向こう側に『大きな裂け目』、すなわちタルタロスの入り口が口をあけている」(p.56)。
* アリストパネース『鳥』187行。たとえば呉茂一訳では、
「雲界ってのは(天と)地との眞中にある」
(アリストパネス、呉茂一譯、『』(岩波文庫 3321-3322)、岩波書店、1944、p.190。再録;『鳥』、『ギリシア喜劇 Ⅱ アリストパネス(下)』(ちくま文庫 き 1-6)、筑摩書房、1986、p.19)。
 次のP.ルイの論文は小笠原正薫、上掲論文、注39(pp.59-60)。

** ヘーシオドス『神統記』の行。廣川洋一訳では、タルタロスの、
「また 上方には 大地と不毛の海の根が伸びている」
(ヘシオドス、廣川洋一訳、『神統記』(岩波文庫 赤107-1)、岩波書店、1984、p.93)。
 次のウエストの著書は小笠原正薫、上掲論文、注6(p.58)。
 その次の引用中のカールの論文は同上、注15(p.58)。

*3 「巨大な大地の(はて) 陰湿な場所に」(上掲『神統記』、同上。なお小笠原正薫、上掲論文での行の数の前の原語表記は割愛)。

*4 「すべてのものの源泉と終端が 順序よく 並んでいる」上掲『神統記』、(同、p.94)。

*5 p.55で『神統記』814行から引用されていました;
「すべての神々から 遠く離れて
ティタンたちが棲み暮らしているのだ 暗鬱なカオスの先に」(同、p.102/813-814行)。
 「大地と水、あるいは水と大気を分かつ『境界』」それ自体も、アーエールやタルタロス、大地と海の根、カオスとその向こう側など、のっぺらぼうの一枚岩どころか、なにやら分節されているようです。カオスやタルタロスの奥は、さらにどこかにつながっているのかどうか。

 ところで大海の果てに滝があって、奈落へと落ちこんでいるというイメージを時に見かけますが、いつ頃から伝えられているのでしょうか。とまれ大地が球をなすことが当たり前になったであろう19世紀においても、たとえばエドガー・アラン・ポーの「壜のなかの手記」(1833)や『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1837~38)それぞれのクライマックスに、そうしたイメージが見られました。その際、

「船をひたと包むものは、いずれを向いてみても、永遠の夜の暗黒と泡立つこともない海の混沌とであった」(阿部知二訳、「壜のなかの手記」、『ポオ全集1』、東京創元社、1970、p.14)。

「暗さは目に見えて増してきたが、ただ行く手に見える、あの白い水蒸気の幕から反射してくる、深海の煌々たる眩ゆい光だけは、その暗さを和らげていた」(大西尹明訳、『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』、同上、p.418/第25章3月22日)

といった描写に、 「濛濛とした」さまを見てとることができるでしょう。なお「壜のなかの手記」の末尾には、

「メルカトールの地図が、海洋が四つの口から(北)極湾に奔流となって注ぎこみ、やがて地球内部に吸収されるものであるということを示しているのを知った」(同上、p.15)

というポオ名義の付記が記されています。ここからつながる地球空洞説とポーとのつながりについては、ルーディ・ラッカー、黒丸尚訳、『空洞地球』(ハヤカワ文庫 SF 942、早川書房、1991)の「解説」(巽孝之)も参照ください(pp.452-458)。

 古代ギリシアに戻れば、 「濛濛と」はしていると言えるのかどうか、あちこちで引きあいに出した、古代の原子論の無限宇宙とアリストテレースの有限な球形宇宙との対立も、世界の涯にまつわる話でした→こちら(「世界の複数性など」の頁)や、そちら(「宙吊りの形相」の頁)。
 あるいは「最外の円周の外には空虚も場所もない」と論じたアリストテレースに対し、「宇宙の外にある空虚が無限」としたストア派(→あちら:「鞠が跳ねる - 追補」の頁の「1.球体宇宙」)や、それとは別に、世界の外には無限の〈非世界〉がひろがるとしたジャイナ教(→ここ:バリントン・J・ベイリー『時間衝突』(1973)・『シティ5からの脱出』(1978)より・『永劫回帰』(1983)メモ頁)なども、同じ領域をめぐる議論です。

 「バルコニー、ヴェランダなど - 怪奇城の高い所(補遺)」の頁の「4. 露台の外」(→そこ)で挙げたダニエル・F・ガロイの『模造世界』(中村融訳、創元SF文庫 SF カ 1-1、東京創元社、2000)の5章の末尾には、

「道路が百フィート先で終わっていた。
 車線の両側は、大地そのものが光さえ通らない地獄の闇の奥に落ちこんでいる。
 行く手には星も月明かりもなく - 無限の暗黒のかなたでなら見つかるかもしれないような、虚無のなかの虚無があるだけだった」(p.96)
と語られます。この小説は『13F』(1999、監督:ジョゼフ・ラスナック)として映画化され、原作とは異なるイメージで上の場面が描かれました(右)。また同じ箇所でも触れましたが、『デモンズ'95』(1994、監督:ミケーレ・ソアヴィ)のラストでも、車でトンネルを抜けると、道が途切れていました。向こうに山や川が見えますが(下左)、途切れた道の端から落ちた先は、底無しであるかのようです(下右)。  『13F』 1999 約1時間10分:世界の涯
『デモンズ'95』 1994 約1時間36分:世界の涯 『デモンズ'95』 1994 約1時間39分:世界の涯の崖の下

 こうした例はまだまだあることでしょうが、ここではたまたま出くわした次の論文から二箇所だけ引用しておきます;

 橋本敬造、「古代中国人の宇宙観 - その無限性の認識について -」、『関西大学社会学部紀要』、12巻1号、1980

「後漢時代の黄憲(75-122)は、太陽や月が出没し、運行する境界の外側に、『太虚』というものを想定した。この太虚という概念は、かれの著書『天文』のなかで論じられたが、それは天体が存在するところの外側に無限に拡がる空間である」(p.180/5節)。

「張衡の『霊憲』にうかがえるように、渾天家の場合にも、気という物質的側面からの論及によって、球面をした渾天の外に、別の渾天が存在しているという複数の世界の存在が否定されていなかったのである」(p.182/6節)。


3.どんどんどんどん下へ;いわゆるイスラーム的宇宙論における大地を支える者たち

 『浮世根問』のいくつかのヴァージョンでは、西へ西へと進んでいきました。ヒミルコの航海も海上を船で移動していく。もっともその先の「濛濛」としたところは、海と空が交わる場所であり、上や下といった区別がなくなってしまうと見なすこともできなくはないかもしれません。ポーの「壜のなかの手記」や『アーサー・ゴードン・ピムの物語』では、瀑布を落ちそうになるところで手記が途切れます。
 実際下へ下へというイメージの運動が、「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」(→こちら)で挙げたいくつかの例で見られました。いまだ古代ギリシャ哲学の世界模型から影響を受けず、クルアーンとハディースに基づくとされる、いわゆる〈イスラーム的宇宙論 Islamic cosmology〉の一部をなします(→こちらの2)。そこでは

 竹田 新、「マスウーディー著『黄金の牧場と宝石の鉱山』の第三~第六章をめぐって (2)」、『大阪外国語大学論集』、5号、1991

で見ることのできたテクストを引用しました(→そちら)。今回はやはり同じ頁で挙げた(→あちら

 大場正史訳、『バートン版 千夜一夜物語 第4巻』、河出書房、1967

から第496夜の該当箇所を見本として引いておきましょう。第496夜は483夜から536夜までを占める『巨蛇(おろち)の女王』、さらに入れ子をなして486夜から498夜、および531夜から533夜までの『ブルキヤの冒険』に含まれています。先立つ第495夜で主人公ブルキヤ王子は、ある高い山の頂上で、大天使ミカエルに出会います。

「その前には、白文字や黒文字でうずまった書板がおいてあって、天使の瞳はじっとそれに注がれ、両の翼は西と東の地平線までひろがっておりました」(p.277)。

「七つの小川が流れ、樹木がたくさん茂って」いるところでは「四人の天使」、

「最初の天使は人間、二番めの天使は野獣、三番めは鳥、四番めは牡牛の似姿をしてい」(同上)

ました。「また別の山」でも「ひとりの大天使」に出会い、山の名を尋ねると、

「この山はカフ山といい、世界をとり巻いている山だ」(同、p.278)

という。天使は

「わしは大地の根もとをしっかとおさえている」(同上)。

第496夜に移って、カフ山の

「後ろには、五百年の旅程もある山系があり、雪と氷におおわれている。
…(中略)…
それにまた、カフ山の後ろには、四十の世界があって、どれもこの世の大きさの四十倍あり、中には黄金でできているもの、白銀でできているもの、肉紅玉髄でできているものがある。そして、いずれも一種独特な色をしていて、天使たちの住家になっている。
…(中略)…
大地は七つの層から成り、段々に積み重なっている。
そして、神は身の丈も性質もほかの者にはわからぬ天使をつくりたもうて、この天使が七つの層を肩さきにかついでいるのだ。
この天使の足下に、全能のアラーは大きな岩をひとつこしらえたが、
その岩の下に牡牛を、
牡牛の下に巨大な魚を、
魚の下に大いなる海原をおつくりになった。
神がその昔イサ(安らかに瞑さんことを!)にその魚のことをお話しになると、イサは『おお、主よ、その魚をとっくり拝見させてくださいませ』と申したので、全能のアラーはひとりの天使に、イサをつれていって魚を見せるようにお命じになった。そこで、天使はイサを伴なって、魚の棲んでいる海へつれていき、『さあ、イサよ、魚を見なさい』と言った。イサはじっと眺めたが、最初のうちはなにも見えない。そのうち、突如としてくだんの魚が電光石火のようにす早くつっ走ったのだ。このありさまに、イサは気を失って倒れたが、やがてわれに返ると、アラーはイサに、神霊感応をもってこうおっしゃったのだ。『これ、イサよ、汝はその魚を見て、その大きさをのみこんだか?』イサが『あなたさまの名誉と栄光にかけても、魚など一匹も見かけませんでした。けれど、三日の旅路もかかるほど長い大牛がそばを通りすぎました。その牛の正体はよくわかりませんが』と答えると、アラーは申された。『イサよ、汝の目にとまったその怪物、通りすぎるのに三日もかかったというものは、ほかならぬ魚の頭じゃ。実は、余はそのような魚を毎日四十匹もこしらえているのだ』
…(中略)…
海の下には底知れぬ空気の深淵を、
空気の下には火を、
火の下にはファラクという巨大な蛇をつくりたもうたが、最高至上の神がこわくさえなければ、この巨蛇(おろち)はきっと空気も火も、天使も、その肩にかついでいるものも、上にあるものはなんでも、それとは知らずに呑みつくしてしまうだろう」(同、pp.278-279。改行は当方による)。

第497夜冒頭で、神は巨蛇の

「口の中に地獄を入れて、『復活の日までしまっておいてくれ』」と言われた」(同、pp.279-280)

と続きます。

 見る機会のあったわずかな例でしかありませんが、「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」で触れた他のヴァージョンとあわせて一覧しておきましょう。以下の番号も先の頁のままです;

(1)と(2) ボルヘス、ゲレロ、柳瀬尚紀訳、『幻獣辞典』、1974、pp.34-35:「バハムート」、p.128:「クジャタ」
(3) 前掲『バートン版 千夜一夜物語 第4巻』、pp.278-279/第496夜

(4) Bernd Radtke and John O'Kane, The Concept of Sainthood in Early Islamic Mysticism. Two works by Al-Ḥakīm Al-Tirmidhī, 1996, pp.229-230/TEXT VI : SĪRA[53](1)
(5) 竹田 新、上掲「マスウーディー著『黄金の牧場と宝石の鉱山』の第三~第六章をめぐって (2)」、p.267/第3章§34。
(6) ヨアン・P・クリアーノ、『霊魂離脱(エクスタシス)とグノーシス』、2009、「第9章 玉座の神秘からミウラージュ伝説へ」より、pp.223-225(一応4つに分けますが;p.223、1行目~4行目/同、5行目~6行目/同、後ろから4行目~2行目/p.224、9行目~12行目;重複かつ混乱もしています。別にカフ山などに関する細部もあり)


上から下へ:
(1) (2)  (3)  (4) (5) (6)   
p.223 同左 pp.223-224 p.224
大地       大地     段々に積み重なっている大地の7つの層       大地       七つの地    大地  
  ハルマンゲという大気層  
七層の火獄
緑岩        
巨魚(hitt)
  
滑らかな石塊
天使 天使 天使 天使の背 天使  天使 天使アルサニエル 
紅玉(ルビー)の岩山 岩山 大きな岩 楽園の岩(そこから青緑の空が生じる)        緑石  
四千の目、耳、鼻孔、口、舌、足をもつ雄牛
=クジャタ。「ひとつの耳からもうひとつの耳へ、あるいはひとつの目からもうひとつの目へ達するには、五百年も要する」(p.128)
 
雄牛の額 牡牛  楽園の牛(岩は牛の3つの角の上に落ち着く)  牛ベヘモト
砂床 緑石
バハムートという名の魚 バハムート  巨大な魚 頭が尾を咥えて円環状になった魚      レヴィアタンという巨魚       空気と闇
  大いなる海原  水(5万年の深さを有する) 大いなる水     
重苦しい風     
底知れぬ空気の深淵  
人知のおよばぬところ 霧の下に存在するものは知られていない   世界の土台(単層の形をしている) 漆黒の闇
ファラクという巨大な蛇(口の中に地獄)  7層の被造物たち(その数を知るのは神以外にいない)
神の全能
 これまた「毎瞬生滅する讃仰天使の群れ/針の先で何体の天使が踊れるか」の頁に続いて重複を重ねますが、

 Persis Berlekamp, Wonder, Image, & Cosmos in Medieval Islam, Yale University Press, New Haven & London, 2011, p.159 / pl.79

を右に挙げておきます。カズウィーニーの『被造物の驚異』(13世紀後半)の16世紀末の写本に収められた挿絵で、
大地

天使





 
となっています(p.158)。
《世界を支えるもの》 カズウィーニー『被造物の驚異』挿絵、1595年頃
《世界を支えるもの》 
カズウィーニー『被造物の驚異』挿絵
1595年頃


* 画像をクリックすると、拡大画像とデータが表示されます
 同巧の図が二点、日本語版ウィキペディアの「クジャタ」の頁(→こちら)に掲載されています。同じく「バハムート」の頁もあって(→そちら)、

「名前は聖書『ヨブ記』のベヒモスの借用だとされる。この巨魚の名前の遡源が陸の獣であるとされるベヒモスというのは整合性を欠くが、これについては牛をベヒモス、魚をレヴィアタンと比定すべきを、あべこべにしたという指摘がある」

と記されていました。「Meigaを探せ!第7回 『THEビッグオー』第17回『Leviathan』 1999/2003」の頁で挙げたブレイク《ヨブ記》(1825)より第15図「ベヘモトとレヴィアタン」(→あちら)などにあるように、ベヘモトは河馬のような巨獣として描かれたりします。

 関根正雄訳、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫 青 801-4)、岩波書店、1971/2011

でも「かば(ヽヽ)」(p.154/40章15)、「わに(ヽヽ)」(p.155/40章25)と訳しつつ、「本当はただのかば(ヽヽ)わに(ヽヽ)ではない」と「註釈」で断っていました(p.214/46)。

 ボルヘス、ゲレロ、前掲『幻獣辞典』、pp.42-43「ベヒーモス」の項

 Howard Schwartz, Tree of Souls. The Mythology of Judaism, Oxford University Press, oxford, New York, 2004, pp.145-147 : Book Two "182. The Sea Monster Leviathan" & "183. Behemoth"

なども参照ください。
 ともあれクジャタ(ウィキペディアの「クジャタ」の上記頁によると正しくは「クユーサー」だそうです)とバハムートがレヴィアタンとベヘモトに対応するのだとして、「500年」という長さも、「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」の→あちらで触れたように、ユダヤとイスラームに共通するイメージでした。
 「紅玉(ルビー)の岩山」、「楽園の岩(そこから青緑の空が生じる)」は、天が硬い石でできているというメソポタミアやイランの伝承を連想させます*。『千夜一夜物語』第496夜で語られた、「カフ山の後ろには、四十の世界があって、どれもこの世の大きさの四十倍あり、中には黄金でできているもの、白銀でできているもの、肉紅玉髄でできているものがある。そして、いずれも一種独特な色をしていて、天使たちの住家になっている」ともつながるかどうか。 * Wayne Horowitz, Mesopotamian Cosmic Geography, Eisenbrauns, Winona Lake, Indiana, 1998, pp.127-128 / part I chapter 6, pp.262-363 / part II chapter 11. もう一つ、水でできているという伝承もあるとのことです。

 H.W. Bailey, Zoroastrian Problems in the Ninth-Century Books (Ratanbai Katrak Lectures), Oxford at the Clarendon Press, 1943/1971, pp.125-134 / chapter V.
 マスウーディー『黄金の牧場と宝石の鉱山』でも;

「一番下の天は翠玉から、
第2の天は白銀から、
第3の手は紅玉から、
第4の天は白真珠から、
第5の天は黄金(赤きこがね)から、
第6の天は黄玉から、
第7の天は光からできてい る」(竹田 新、上掲「マスウーディー著『黄金の牧場と宝石の鉱山』の第三~第六章をめぐって (2)」、p.268/§36。改行は当方による)。
 また「段々に積み重なっている大地の7つの層」は、マニ教における〈八つの大地〉と比較できるでしょうか** **  A. V. William Jackson, Researches in Manichaeism. With Special References to thw Turfan Fragments, AMS Press Inc., New York, 1932 / 1965, pp.22-73 / part II study II.
 おおよそ共通する要素を用いつつ、順序が一致しなかったり、他にないイメージが登場するのが、興味深いところです。ボルヘス、ゲレロ、前掲『幻獣辞典』には、

「岩山が雄牛の上にあり、雄牛がバハムートの上に、バハムートが何か別のものの上にあるという観念は、神の存在の宇宙論的証明の一例であるように思われる。あらゆる原因がそれに先立つ原因を必要とし、それゆえ無限にすすんでいくことを避けるためには第一の原因が必要であるというのが、この証明の論法である」(p.35/「バハムート」)

と述べられていました。「闇」や「霧」、「底知れぬ空気の深淵」、「人知のおよばぬところ」、「霧の下に存在するものは知られていない」との言い方は、いかにも「濛濛」としており、下に降りるほど何とも形容しがたくなって、こんな言い方しかできなくなるということなのでしょう。この点では、神の存在の宇宙論的証明〉を〈否定神学〉と言い換えることもできそうです。
 否定神学に至るイメージの積み重ねは、古代末のグノーシス主義における〈プレーローマ〉とも比べることができるかもしれません。その際グノーシス諸派においては、物質宇宙と無関係な領域ということもあってか、プレーローマの各成員は、バルベーロー*やアカモート**といった、語源はともかく個性化された名前もあるものの、しばしば、〈知性(ヌース)〉だの〈知恵(ソフィア)〉、〈ロゴス〉といった*3、心的機能を表わす抽象的な概念名で呼ばれました。あるいはヴァレンティノス派のプトレマイオスの体系では〈深淵(ビュトス)〉や〈沈黙(シゲー)〉が始源のアイオーンでした*4。〈境界(ホロス)〉という名も出てきます*5  * 荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、『ナグ・ハマディ文書 Ⅰ 救済神話』、岩波書店、1997、p.33/ヨハネのアポクリュフォン』§18。

** 上掲『ナグ・ハマディ文書 Ⅰ 救済神話』、p.224/「プトレマイオスの教説 - エイレナイオス『異端反駁』(I, 1, 1-8,5)」第4章。

*3 たとえばエイレーナイオス版バシリデース→こちらを参照:「反転的グノーシス主義、その他 メモ」の頁。

*4 上掲『ナグ・ハマディ文書 Ⅰ 救済神話』、p.210/「プトレマイオスの教説 - エイレナイオス『異端反駁』(I, 1, 1-8,5)」第1章。

*5 同上、pp.214-215/同第2章。
 他方、いわゆるイスラーム的宇宙論においては、大地という、具体的で目に見え、重さもあるものを支えるせいか、個々の項は天使や牡牛クユーサー(クジャタ)、巨魚バハムートといった具体的なイメージであらねばならず、それでいておのおの、宇宙規模の存在でもある。「原初の巨人、原初の獣、龍とドラゴンその他」の頁や「反転的グノーシス主義、その他 メモ」の頁の「4.ティアマトと原初の巨人、原初の獣」で取りあげた、〈原初の巨人、原初の獣〉に相当すると見なせます。それ以外の岩山、水、風などは、バハムートたちのような個別化した姿をとらず、往々にして限定された形を持ちません。これらも概念的と言えなくはありませんが、それにしても質料という性格が色濃い。こうした全体を逆立ちしたプレーローマとでも呼べましょうか。


4.どんどんどんどん下へ横へ;『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』より、他

 『千夜一夜物語』第496夜の中に、神がバハムートについて、「実は、余はそのような魚を毎日四十匹もこしらえているのだ」と語る箇所がありました。これはいったいどういう事態なのでしょうか。バハムート一体が大地一つと結びつくのであれば、40という数がなぜか一致する「カフ山の後ろの四十の世界」に一体ずついるとも見なせるかもしれません。あるいはユダヤやメソアメリカの伝承のように、この宇宙以前にいくつもの先行する世界があったというイメージと関連するのか。にしても毎日となれば、どれだけの数になるものか。「毎瞬生滅する讃仰天使の群れ/針の先で何体の天使が踊れるか」の頁で取りあげた讃仰天使群のように、毎瞬だか毎朝だか、ただちに消えゆきでもしないかぎり、宇宙も諸宇宙も超宇宙も、バハムートだらけになってしまいかねない。それはそれで面白いイメージかもしれません。

 それはともかく、カーフ山は「世界をとり巻いている山」なので、その「後ろの四十の世界」は、世界の外に位置することになります。これに呼応する描像は、「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」(→こちら)でも触れたように、またしても重複しますが、

  守川知子監訳、ペルシア語百科全書研究会訳注、「ムハンマド・ブン・マフムード・トゥースィー著 『被造物の驚異と万物の珍奇』(2)」、『イスラーム世界研究』、vol.3 no.1、2009.7

に、

「創造主が『諸世界の主(rabb al-ʻālamīn)』であり、1万8000の世界をお創りになったのだ、…(中略)…[1万8000の世界のうちの]1つは太陽がその中をまわって[いるこの世界であり]、1万7000[の世界]はこの世界の外にある」(p.417/「第1部 高き諸天とそこに属するものの驚異について、第2章 天界と諸天の驚異について」)

と、またそのすぐ後で

「もし、『天の向こうには何があるか』と問われたら、『別のさまざまな世界がある。だがそれは、至高なる造物主のみが知り得るのだ』と答えよう。なぜなら、広大な荒野の中にたった1本の草しかない、ということはあり得ず、同様に、創造主の王国の中に1つの世界しかない、というのもあり得ないからである。その上、[創造主は]自らを『諸世界の主』と呼んでいる」(同、p.418)

と、さらに

 「ムハンマド・ブン・マフムード・トゥースィー著 『被造物の驚異と万物の珍奇』(4)」、『イスラーム世界研究』、vol.4 no.1・2、2011.3

では、

「1万8000の世界があり、1つは東から西まで[のこの世界である]。1万7000[の残りの世界]は、人がそこに至るすべはない。その大きさは神のみがご存じである」(p.513/「第3部 大地と水の驚異について、第4章 大地の驚異とその性質について」)

と記されていました。「この世界の外にあ」り、「人がそこに至るすべはない」、「1万8000の世界」は、「カフ山の後ろの四十の世界」から大幅に増え、「この世の大きさの四十倍」かどうかわからなくなっているのはともかく、カーフ山については、少し後に

「カーフの山は『緑の山(Jabal al-aḫḍar)』と呼ばれる。『闇の世界』のほうから大地を取り囲んでおり、ほかの山々はその支脈である」(同上、p.517/「第3部 大地と水と海の驚異について、第5章 山々の驚異とその性質について」)

と述べられ、大地の端にあり、その向こうは「闇の世界」と呼ばれるわけですが、少なくともここでは「1万8000の世界」と結びつけられてはいない。なお「1万8000の世界」という概念も、ユダヤとイスラームで共有されています→こちら(「ユダヤ Ⅱ」の頁の「xi. メルカヴァー/ヘーハロート神秘主義など」参照。この点は少し後にも出てきます。

 これらの諸世界がどんな風に配置されているのかはわかりませんが、いずれにせよ、この世界の下にあるのではなく、この世界と並列しているようです。横へ横へという点で、「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」中のメモの一つの最後でも触れ(→そちら)、また阿呆の一つ憶えよろしく、さんざんあちこちで引きあいに出したのが、 『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』第3章第3節です。そして同第6節はイスラーム的宇宙論における大地を支える者たちと同じく、下へ下へという話です。
 横へ横への第3章第3節は最後にまわすとして、まず下へ下への第3章6節から;

「次に、ガールギー・ヴァーチャクナヴィーがヤージニャヴァルキヤに質問した。
『ヤージニャヴァルキヤ殿』と彼女はいった。『この世のあらゆるものは水の上に経緯(たてよこ)に連ね合わされております。ところで水は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『風の上にである、ガールギーよ』
『それでは風は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『空界(天地間の空間)の上にである、ガールギーよ』
『それでは空界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『ガンダルヴァの世界の上にである、ガールギーよ』
『それではガンダルヴァの世界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『太陽の世界の上にである、ガールギーよ』
『それでは太陽の世界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『月の世界の上にである、ガールギーよ』
『それでは月の世界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『星の世界の上にである、ガールギーよ』
『それでは星の世界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『神々の世界の上にである、ガールギーよ』
『それでは神々の世界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『インドラ(神々の王)の世界の上にである、ガールギーよ』
『それではインドラの世界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
『ブラフマン(宇宙の最高原理)の世界の上にである、ガールギーよ』
『それではブラフマンの世界は何の上に経緯に連ねられているのでしょうか』
ヤージニャヴァルキヤはいった。『ガールギーよ、問い過ぎてはいけない。あなたの首が落ちてしまうといけないから。あなたはそれをこえて問うべきではない神格について問うているのだ、ガールギーよ、問い過ぎてはいけない』
 そこで、ガールギー・ヴァーチャクナヴィーは沈黙した」
  (服部正明訳、『バラモン教典 原始仏典 世界の名著 1』、中央公論社、1969、pp.68-70。別訳;岩本裕訳、『ヴェーダ アヴェスター 世界古典文学全集 第3巻』、筑摩書房、1967、p.241。佐保田鶴治、『ウパニシャッド』、平河出版社、1979、pp.105-106)。

 最後の「あなたの首が落ちてしまうといけないから」という警告は、第一動者的ないし否定神学的な引き返し点の一例でしょう。『神曲』のかの有名な一節、

「われを過ぎんとするものは一切の望を捨てよ」(ダンテ、平川祐弘訳、『神曲 世界文学全集 Ⅲ-3』、河出書房新社、1966、p.14/『地獄篇』第3歌9)

や、「通りゃんせ」の「行きはよいよい帰りは怖い」とも通じるでしょうか。ちなみに

 Peter Schäfer, “In Heaven as It Is in Hell: The Cosmology of Seder Rabba di-Bereshit,” in Ra’anan S. Boustan and Annette Yoshiko Reed, eds., Heavenly Realms and Earthly Realities in Late Antique Religions, Cambridge: Cambridge University Press, 2004

が取り扱う Seder Rabba di-Bereshit (『セデル・ラッバー・ディ・べ-レシート』)では、七つの天と七つの大地が描きだされるのですが、その第七の大地を取り囲むものに関して、数千の天使たちがシェキナーの足を取り巻いており、またシェキナーの足がある場所は、1万8000の世界に縁取られているという。先のトゥースィー『被造物の驚異と万物の珍奇』に出てきたのと同じ数の1万8000の世界はまた、長いリストをなす諸元素と天使たちに囲まれています。そして第七の大地を取り巻く最後の〈殻〉の層として、

「厚い泥、深淵(テホーム)、トーフーとボーフー、そして最後に、測りがたく、数えられぬ、果てしなく、きりのない暗闇」(pp.243-244)

が列挙されます。そして、

「『ここまでは、あなたには話す許可が与えられている。しかしここから先は、涙する者と自らを捉えよ!』 (あかし)となるテクストは『ベン=シラの知恵』3章21-22:『おのれにとりて難きに過ぐるものを求むな、またおのが力の及ばざるものを探るな。なんじの命ぜられしことを熟考せよ、隠されたることはなんじに用なければなり』」(p.244。『ベン=シラの知恵』3章21-22 の訳は『アポクリファ 旧約聖書外典』、日本聖公会出版部、1934/1968、p.198。別訳;新見宏訳、「ベン・シラ」、関根正雄編、『旧約聖書外典(上)』(講談社文芸文庫 セ A1)、講談社、1998、p.209)。

 "someone who puts his finger on [his] eye"を「涙する者」としましたが、合っているのかどうか。別訳を収録した

 Nocolas Sed, La mystique cosmologique juive, (Études juives XVI), Éditions de l'École des Hautes Études en Sciences Sociales, Mouton Éditeur, Paris, 1981, pp.91-93 / chapitre III, A-a, §20, §22.

では、"à partir de là tu entres dans un domaine dangereux"(その先、お前は危険な領域に入る)となっていました。「あなたの首が落ちてしまうといけないから」と同じ趣旨と見てよいでしょう。

 シェーファー論文の註37(p.244)にも記されていましたが、『バビロニア・タルムード』中の『ハギガー』11b-13a を扱う、セーの著書第1章d-1 にも、同じ文言がありました(p.33 / fol.13a, 8)。少し前で第七天「雲(arabhōt)」について、

「そこには智天使(オファニム)熾天使(セラフィム)、聖なる活きもの(ハヨット)、奉仕天使たちがおり、栄光の玉座がある。王、活ける神は、丈高く気高く、彼らの上で雲(arabhōt)の中に住まう。
…(中略)…
闇、厚雲と霧がそれを取り囲んでいる。
…(中略)…
聖なる活きものたち(ハヨット)の頭の上には、まだ天が一つある。…(後略)…」(同上/fol.12b, 7)

と述べられたのに続く箇所です。

  「厚い泥、深淵(テホーム)、トーフーとボーフー、…(中略)…暗闇」(Schäfer, p.244)に戻ると、「厚い泥」以外は『創世記』第1章2、

「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(『聖書』、日本聖書協会、1976、p.1)

に出てくる言葉です。

 加藤潔、「祭司文書の創造物語」、『稚内北星学園短期大学紀要』、no.4、1991.3.6

によると、

「〈トーフー〉 英語訳は"without form"と訳すものが多い。協会訳は『形なく』と訳す。
…(中略)…
〈ボーフー〉 この単語だけでは"void"と訳されるが、旧約聖書では3回のみ出てくるものであり、すべて〈トーフー〉と並んで用いられる。
…(中略)…
〈ホシェク〉 英語訳では"darkness"。
…(中略)…
〈テホーム〉 古代イスラエル人の世界観によれば海のかなたは淵であり、地下の水とつながるところである」(pp.8-9/Ⅱ-2(1))。

 城崎進、「ヘブル創造神話における chaos」、『オリエント』、vol.6 no.4、1963、pp.45-47/2節

 城崎進、「『無からの創造』とカオス」、『神學研究』、no.15、1966.12.25、pp.30-40/2~4節

〈テホーム〉について;

 相浦忠雄、「旧約におけるテホーム・モティーフ」、『神學研究』、no.13、1964.9.28

また、〈トーフーとボーフー〉について;

 Wilfred Shuchat, The Creation according to the Midrash Rabbah, Devora Publication, Jerusalem, New York, 2002, pp.25-26, 42-44, 84-106.

 Howard Schwartz, Tree of Souls. The Mythology of Judaism, op.cit., pp.100-101 : Book Two "129. The Origin of Chaos"

 「……闇」についてでしょうか、文の終わりに註36が付され、「証のテクストは『サムエル記下』22章12」とありました(Schäfer, p.244, n.36)。日本聖書協会訳では、22章10行から引くと;

「彼は天を低くして下られ、
 暗やみが彼の足の下にあった。
 彼はケルブに乗って飛び、
 風の翼に乗ってあらわれた。
 彼はその周囲に幕屋として、
 やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた」(p.468)。

 「厚い泥」(thick mud [ tit ha-yaven ])というのも、『創世記』1章2 なり他の箇所なりに由来するのでしょうか。セーの上掲書では

「ぬかるみの泥(la fange du bourbier)がそれらすべての背後で輪をなしている。ここからは、深淵、トーフー、底も数も大きさも果てもない闇だ。『彼は幕のように闇を身にまとった』(『詩篇』18章12)と言われるように」(p.92/§22)

と訳されていました。『詩篇』18章12前後は、上の『ハギガー』12b, 7 でも「闇、厚雲と霧がそれを取り囲んでいる」の証として引かれていました(p.33)。先の『サムエル記下』22章10-12 と重なっており、

「主は天をたれて下られ、
 暗やみがその足の下にありました。
 主はケルブに乗って飛び、風の翼をもってかけり、
 やみをおおいとして、自分のまわりに置き、
 水を含んだ暗い濃き雲をその幕屋とされました」(日本聖書協会訳、p.760/12章9-11)。

 「やみと濃き雲と水の集まり」なり「水を含んだ暗い濃き雲」からなる「幕屋」というのが、創世記1章2 に出てくる各単語と重ねあわされているのでしょう。「厚い泥」だか「ぬかるみの泥」に通じるのかどうか。いかにも暗そうなところは『老子』の「玄の又玄」が連想されたりもする(小川環樹訳注、『老子』(中公文庫 D1)、中央公論社、1973、p.5/第1章)。いずれ〈泥の海〉や〈濛濛〉にも通じています。

  さて、『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』に戻って、横へ横への第3章第3節では、「パリクシッド王(古代インド王統史の最初にあらわれる理想的帝王)の子孫たちはどこへ行ったか」という質問にヤージニャヴァルキヤは、

「彼らは馬祀祭(アシヴァ・メーダ)を遂行する人々がおもむくところへ行った、とガンダルヴァはいったにちがいない
…(中略)…
この世界は、(太陽)神の馬車で三十二日の行程の広さである。
それを二倍の広さの大地がまわりから取り囲んでいる。
その大地を二倍の広さの大洋がまわりから取り囲んでいる。
そこ(大洋が蒼穹に連なるところ)に、中間帯として、剃刀の刃ぐらいの、あるいは蚊の翅ぐらいの虚空がある。
インドラ神は鷲のすがたをとってこの虚空を横切り、パリクシット王の子孫たちを風神(ヴァーユ)に引きわたした。
風神は彼らを自分の上に乗せて、馬祀祭を行なう人々が行ったところへ連れていった」
 (前掲『バラモン教典 原始仏典 世界の名著 1』、pp.65-66。( )内は訳者補足。改行は当方による。別訳;前掲『ヴェーダ アヴェスター』、pp.239-240。佐保田鶴治、前掲『ウパニシャッド』、p.102)。

 大洋と蒼穹の間の「剃刀の刃ぐらいの、あるいは蚊の翅ぐらいの虚空」というイメージは、ここでの話からすると、その向こうに別の世界があるのだとして、この虚空は、海や空を形作る物質なり空間とは異なる何かでできているのでしょう。だからこの世界との接点は、「剃刀の刃ぐらいの、あるいは蚊の翅ぐらい」でしかありえない。相対性理論以後の宇宙論における時空の〈虫喰い穴(ワームホール)〉を開いた状態で安定させるためには、〈エキゾチックな物質〉が必要だという説が連想されたりもします(キップ・S・ソーン、林一・塚原周信訳、『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』、白揚社、1997、pp.441-447/第14章、また福江純監修、『図解雑学 タイムマシン』、ナツメ社、2003、pp.134-139・第4章など参照)。
 ただし点ないし管状であろう〈虫喰い穴(ワームホール)〉に対して、「剃刀の刃ぐらいの、あるいは蚊の翅ぐらいの虚空」は、海と空が交わるところならどこでも、幅がほとんどないか、あるいはまったくない線として伸びているのかもしれません。
2026/03/16 以後、随時修正・追補
HOME宇宙論の歴史、孫引きガイド四方山話・目次 > 根問異聞 メモ